コメントは要らない

最近はテレビのニュース・・・実際には「ニュース番組」が煩わしく思えるようになりました。

だからと言って、見ないわけではないのですが、自分が、少なくとも個人として知りたい事は「事実」だけ、新聞ばなれで書いた理由もあり、すべて胡散臭い感じがしてしまうからです。

例えば、某国の独裁者が足を引きづってる映像が流れた・・・を見て、番組で、「これは糖尿病であろう・・」とか、「独裁者だから、無理しても姿を出さないといけないのだろう・・」とか話を続けるわけですが、それがとても、洗脳されているような錯覚になります。

太って、足を引きづっていた=糖尿病 、 それでもテレビに出る=TOPとして大変なんだ・・・

これが、頭の中で、イメージとして、真実とは別に、「そうか、あの人は病気なんだ・・大変だね・・」と形になってしまいます。

映像と、コメントで頭に固定されるのです。

でも、真実は誰も、他国の話ですから、TOPの周辺以外の人は知らないのです。

少し、掘り下げると、そそもそも、独裁者にとって、体調が良いのは当たり前であり、神格化されるほどの立場なら、絶対にそんな姿は見せない。そもそも、その父親だって、そんな姿は見せなかった。

そう考えると、まさに、テレビで「コメント」された事を、ロートルを含む、他国の庶民が、コメントと同じように理解する事を、その国が望んでいるのでは・・

とも言えます。国家間のやりとりは、コメントのような単純な図式とは、思えず、ロートルレに思いも寄らない本当の理由があるかもしれません。

そんな事と考えると、いろんなケースが推定されます。

が、そんな事は、ロートルの勝手な想像であり、所詮は想像です。「固定」ではなく、「想像」です。

ところが、テレビで映像とコメントが流れると、単純に、「病気?」「でも元気なところ見せないとね・・」と理解し、そこで終わるのです。

コメントは、推定であっても、こちらは事実として頭に固定されるのです。

コメントはニュースを知る上で、一つの指標には違いありませんが、固定されるのは(そう感じてしまうロートルの問題でもありますが)困ったものです。

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